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家康との決戦


家康に懐柔工作は通じず、もはや力ずくで服従させるのみと考えた秀吉は、大坂にて10万の軍勢を動員させると、1586年8月26日「徳川討伐軍」と称し三河へ向けて進軍の大号令を出した。

秀吉にとっては、小牧・長久手のように二度の敗戦は許されぬ戦ゆえ、軍師の黒田官兵衛と前もって密に策を練っていた。
家康は野戦において最大限の力を発することができるため、まずはその手を封じる必要があり、秀吉はあらかじめ、尾張・三河の国境の矢作川の西岸に野戦城郭を3つ築城するように命じていた。
一方、陸路から進む軍勢とは別に、海上から軍船にて遠江に軍勢を送り込んで、家康軍を分断させる作戦も立てていた。
さらには、三河の百姓には一向宗が多いため、京の本願寺から指令させて一揆を起こさせる手配もさせていた。



10月13日、秀吉軍10万は尾張・三河の国境の矢作川を挟み、家康軍1万5千と対峙した。

しかし、「歴戦の兵」である家康は、この時すでに秀吉の作戦を察しており、徳川軍の敗北は決したと読んでいた。
家康は、今後の徳川家の政治的な立ち回りを考え、一戦も交えずして秀吉軍に降伏の申し出をしてきた。
秀吉は、家康に対し「大坂への上洛」を条件として降伏を受け入れると、直ちに10万の軍勢を大坂に引き上げた。

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