FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

北陸遠征


秀吉は、能登に侵攻した佐々成政軍を征伐するため、近江安土にて大軍集結の号令を出した。

その頃、成政軍は能登末森城を落城させ、加賀から能登に駆けつけた前田利家軍と対峙していた。
秀吉は、北陸遠征軍が到着するよりも先に勢いをつけた成政軍に能登・加賀を奪われてしまう危機を感じ、急ぎ同盟国である越後の上杉景勝に使者を送った。
成政領の越中を背面から襲ってほしいという侵軍要請であった。
上杉軍は秀吉の希望に応じ、越中に侵軍すると、成政軍は能登攻略を中断して越中へ退却した。
秀吉は、成政の再侵攻に備えるため、能登・加賀の利家に北陸の防衛を強化するよう命じた。

一方、秀吉の北陸遠征の報を聞いた紀伊の根来・雑賀衆は手薄となった大坂へ侵攻を再開し、尾張の織田信雄・徳川家康連合軍も清洲城から出撃の動きを見せた。

大軍の一点集中により、たちまち、三方面から攻撃を受けることになった秀吉は、大急ぎで北陸遠征を取り止めの号令を発し、大坂・尾張へ軍勢を戻させた。
結果的に今回の北陸征伐は失敗に終わり、秀吉の判断力・統率力を問われる形となった。

秀吉は、攻略の方針を伊賀・伊勢の織田信雄領に戻すと、瞬く間に伊賀・伊勢の諸城を奪い取ることに成功した。
やがて、尾張50万石にまで所領が減った信雄は、秀吉の下に和睦の使者を送ってきた。
秀吉にとっては非常にありがたい申し出であった。
信雄との和睦を受諾することにより、「主家に刃向ける逆賊」という汚名の返上ができ、さらに同盟者であった東海の徳川家康にとっては、秀吉を攻撃する大義名分がなくなる。

「威信」-10

さて、秀吉は信雄との和睦会見をどのような態度で迎えるか?

絶対服従をさせるため威圧的に迎える
主君を仰ぐかのように丁重に迎える
スポンサーサイト