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断固反対する


秀吉は、池田恒興の奇襲作戦を断固して反対した。
しかし恒興は「ならば我が手勢のみにて三河に攻め入る」と、秀吉の命に背き、奇襲作戦の決行をした。
恒興の作戦に反対した秀吉であったが、盟友の印として甥である羽柴秀次と6千の兵を恒興に託した。

4月6日夜、恒興は羽柴秀次ら軍勢1万2千を率い三河に向けて出発した。
しかし家康は、近隣の農民や伊賀忍者衆の情報により、すぐに恒興軍の動きを察知すると、織田信雄と打ち合わせ、密かに小牧山城を抜け、恒興軍が進むであろう先にある小幡城に入り、逆に恒興軍を待ち伏せる形を取った。

4月9日明朝、家康・信雄軍9千は、恒興軍の背後を襲撃した。



襲撃を受けた恒興軍は混乱状態に陥り、恒興は敵将に討ち取られた。
恒興軍は壊滅し、秀次は命かながら秀吉本陣まで逃げ延びた。

この合戦にて大勝利を得た家康・信雄軍は直ちに小牧山城へ引き返した。
秀吉本軍ではないにしろ、局地戦にて秀吉に勝利した家康の名声は天下に轟いた。
一方の秀吉陣営は、総大将の命令に背き独断な行動をした恒興軍とその敗戦により大いに士気は乱れた。

「威信」-80

さて、局地戦で大敗を喫した秀吉は、家康軍とどう戦う?

自ら軍勢を率い、小牧山城へ攻め込む
しばらく対峙し、大坂へ撤退する
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