FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

恒興対家康


「左様にまで申されるならば・・」と秀吉は、仕方なく池田恒興の懇願である「中入り」作戦の許可をした。

しかし秀吉は、恒興の作戦に不安があり兵力の増強にて補おうと、恒興の軍勢に加え、自らの甥である羽柴秀次と8千の兵を恒興に託した。
奇襲軍は先鋒に池田恒興、次鋒に森長可、第三隊に堀秀政、第四隊に羽柴秀次とした総計2万の軍勢を編成した。

4月6日夜、恒興の奇襲軍は三河に向けて出発したが、2万という巨大な軍勢ゆえ、その進軍は緩やかであった。
家康は、近隣の農民や伊賀忍者衆の情報により、すぐに恒興の奇襲軍の動きを察知すると、織田信雄と打ち合わせ、密かに小牧山城を抜け、奇襲軍が進むであろう先にある小幡城に入り、逆に奇襲軍を待ち伏せる形を取った。

4月9日早朝、家康軍6千は奇襲軍の最後尾である羽柴秀次軍を背後から一斉に襲撃すると、秀次軍は一気に壊滅させられた。
家康軍はさらに恒興の奇襲軍を後方から攻撃するため東へ突進した。
三河へ進軍中であった第三隊の堀秀政は、秀次軍壊滅の報を聞くと直ちに軍勢を引き返し、家康軍先鋒隊である榊原康政軍と激突した。
戦上手な堀秀政は榊原康政軍を敗退させたが、戦況の不利を悟り戦場から離脱した。

一方、奇襲軍の先鋒・次鋒である恒興と森長可は家康軍により後方部隊の惨状を知ると、大慌てで引き返し始めた。
4月9日午前、ついに恒興・森長可軍9千と家康・信雄軍9千が激突した。



戦況は一進一退の攻防が続いたが、恒興・森長可とも討ち取られ、恒興・森長可軍は壊滅した。
この一連の合戦は家康・信雄の大勝利に終わると、家康・信雄軍は直ちに小牧山城へ引き返した。

「威信」-50

さて、局地戦で大敗を喫した秀吉は、家康軍とどう戦うか?

自ら軍勢を率い、小牧山城へ攻め込む
しばらく対峙し、大坂へ撤退する
スポンサーサイト