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秀吉敗北


秀吉本隊が美濃にいる間、勝家の先鋒隊長である佐久間盛政軍は大岩山砦を攻撃した。

大岩山砦守っていたのは中川清秀であったが、盛政軍の猛攻に耐え切れず陥落し、中川清秀は討死した。
続いて盛政軍は岩崎山砦を攻撃すると、守る高山右近も支えきれずに退却し、木之本の羽柴長秀の本陣に逃れた。

一方の美濃の秀吉は、4月20日、大垣城にて大岩山砦等の落城と清秀討死の報を聞き、大急ぎで軍を近江木之本に返した。
大垣城から木ノ本までは丘陵地帯を含む約50kmの道程であった。
盛政は、秀吉到着までもう1日かかると読み、その間に秀吉方の堂木山砦を守る山路正国の調略を成功させた。
さらに勢いをつけた盛政軍は賤ヶ岳砦を守る桑山重晴を包囲し降伏させると、膠着状態にあった戦況は一気に勝家側に大きく傾いた。
ここで勝家は全軍に総攻撃を命じると、木之本本陣の羽柴秀長も勝家軍の進撃を止めることはできず敗退を喫した。

4月21日正午、ようやく近江まで戻った秀吉本隊であったが、勝家軍は近江平野まで入り込んでおり、秀吉は敗走する全軍に対し、安土城まで撤退を命じた。
勝家軍の執拗までの追撃により秀吉軍は一旦、佐和山城に入り籠城した。
この秀吉軍の敗戦により、美濃の織田信雄・信孝兄弟、伊勢の滝川一益は勝家に呼応して、近江へ向けて進軍した。
たちまち佐和山城は勝家軍に包囲され、秀吉は安土・京・大坂方に援軍を要請したが、安土城は三法師の後見人である信雄の指示により、勝家方に鞍替えをしていた。
勝家は、秀吉の援軍が到着する前に、包囲した佐和山城に火を放ち、全力で攻め立てた。



秀吉は「もはやこれまで」と自害し果て、佐和山城を開城した。

享年47歳であった。

秀吉の死により、天下争いは柴田勝家、徳川家康の両雄が競い合うことになる・・・。
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