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姫路へ向かう


北陸の柴田勝家が雪で動けない間に、伊勢の滝川一益を粉砕しておく必要があり、秀吉はあえて京を留守にして隙を見せて挑発すれば、滝川一益は軍勢を挙げて蜂起するだろうと考えていた。

秀吉は正月を姫路で迎えるために、12月29日に京の宝寺城を発ち、大晦日には姫路城に着いた。
姫路城内にはくまなく明かりを灯させ、軍勢には酒を飲ませ城下町も賑やかにさせた。
秀吉は、一旦風呂で疲れを取ると、休む間もなくここ数ヶ月間に功績のあった家臣8百名に対して、論功行賞を行った。
論功行賞とは、家臣に対して領地の加増や金銀、太刀、馬、茶器等を恩賞として与える行賞事務であり、秀吉は常に家臣の忠義を掴んでおくために、この論功行賞に重きを置いていた。
論功行賞を終えた頃には、年も明けて元旦となっていたが、秀吉はこの半年間無休で働きまわっていたため、年頭の礼を先延ばしにし、約2日間熟睡した。

1583年1月3日、秀吉は姫路城内大広間にて家臣より年賀の礼を受けた。
翌4日には近隣の城主や地侍、寺社の僧や神官などが秀吉の下へ押し寄せて来たが、そのような中、伊勢の滝川一益が動いたという報が入った。
滝川一益は見事に秀吉の術中にはまり、行動を起こしたのであった。

秀吉は、翌5日に軍勢をまとめ姫路を発った。

「威信」+10

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