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厚遇する


柴田勝家の使者として山崎宝寺城に辿り着いた前田利家らに対して、秀吉は温かく迎い入れ、酒宴の席を用意した。

利家と秀吉は足軽時代からの親しい仲であり、良きライバルであったが、秀吉が出世街道を進み中国攻めの軍団長まで登りつめたのに対し、一方の利家は目立った功績が残せず、北陸攻めの際に柴田勝家の与力となり、信長の死を迎え、そのまま勝家の家臣となっている。
また、利家は専ら戦場での槍働きを得意とし、思慮は浅いものの義理深き律儀な武将であった。

この度も勝家の和睦使者として秀吉の下に来たが、利家自身は主・勝家の魂胆を知らず、純粋に織田家のために秀吉と勝家の仲を取り成したい思いでやって来ているようである。

秀吉は「又左(利家)の願いであれば・・・」と利家に恩を売る形で勝家との和睦に快諾した。
しかし、秀吉の思惑は、この和睦を「勝家とのみ」と逆手に捉え、勝家に組みする織田信孝や滝川一益とは約定対象外であり、この和睦により勝家の邪魔が入らない状況下で彼らを攻撃できることに、むしろ好機と考えていた。
さらに秀吉は利家に「岐阜に居られる三法師ぎみのご機嫌を伺いたいが、大津から岐阜までの道中に宿場がなくて困っている。願わくば宿場を作るために材木を賤ヶ岳付近から伐り出したいが、勝家殿に許しを得てもらいたい」と願い出た。

秀吉は、勝家は雪解けの来春に軍勢を率いて南下してくる、と読んでおり、勝家軍が越前から近江平野に出て来る最後の山々がこの「賤ヶ岳」であり、恐らく決戦の場となろうと予想していた。
そのために材木伐採を口実に人夫を入れて事前に戦略地理を知りたかった。
利家にはそこまでの理解は不可能であり、秀吉の願いを快く了解した。

翌日には秀吉は、利家らを宝寺城の山頂に案内し、山麓下に流れる淀川の大河、北の京の町、南の広大な大坂平野、瀬戸内海の姿、そして自身の支配力の巨大さを彼らに見せつけた。
秀吉は利家らを三日間に渡り手厚い歓待をするとともに少しずつ彼らを懐柔していき、多大な土産を持たせ越前に向け帰らせた。

「威信」+10

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