FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

後継者選び


柴田勝家は、天下取りの第一条件である「仇討ち」という絶好の機会を秀吉に取られ、焦りを感じていたが、一つだけ逆転を図る最後の策があった。
勝家の最後の策とは、仇討ちは自分にはできなかったが、信長とその嫡子・信忠の死後、自分が織田家の後継者を決め、自分こそが織田家筆頭である、ということを織田家臣団に示すことであった。
勝家は、織田家の主要な家臣に対して「尾張清洲城にて、織田家の後継者、そして統治領内の再編成を決める」と評定の召集号令を発した。
この号令は、故信長の名代として、織田家筆頭家老である勝家しかできぬことであり、この評定にて天下の主導権を取り返そうとしたのである。
当然、秀吉の下にも勝家から清洲会議の召集状が届いていた。

この頃秀吉は、北近江、丹後、若狭といった旧明智方に属していた国々の平定をし着実に畿内の安定を図っていた。
勝家が召集する清州会議は、秀吉にとって天王山の合戦以上の「合戦」になることを重々感じていた。
問題は、後継者に誰を推すべきかであった。
秀吉はこの件については、以前より軍師・黒田官兵衛と話し合っていたが、三男の信孝は柴田勝家とは昔より入魂の仲であり、すでに勝家が擁立させようと画策している。
次男の信雄は、織田家臣の中でも評判は悪く、この度の明智光秀の謀反に対し、安土城の放火や部外者である東海の徳川家康に仇討ちを依頼した愚将である。
「ここは、無能な遺児兄弟を推すよりも、むしろ信長公の嫡子・信忠様の遺児である三法師ぎみを推すべきである」と官兵衛は答えた。
確かに、三法師は信長の嫡孫であり、筋目であるが、歳はわずか3歳の幼児であった。

さて、秀吉は織田の後継者としてどちらを選ぶべきか?
信長の次男である信雄
信長の嫡孫である三法師

スポンサーサイト