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丁寧に労う


秀吉は、中川清秀の暴言に対して、わざわざ駕籠から降り、この度の合戦の労いを丁寧に述べた。
しかし、この秀吉の取った行動を見た諸侯たちは、驚きを見せた。
今後も織田家家臣として同格の立場を通すのであれば、物腰の低さは謙虚さとして評価されるものであるが、これから天下人として諸侯を従えていくためには、公の場においては、それなりの威厳の姿勢が必要であった。
さらに、この秀吉の有様を見た織田信孝は、勝龍寺城に入った秀吉を差し置き、諸将に命令を下そうとしていた。
この「弔い合戦」の名目上の総大将は信長の遺児・信孝であるが、真の総大将は、秀吉であることは誰が見ても明白なことであり、ここで信孝に指揮を譲ってしまえば、せっかくの天下取りの合戦の労は信孝に奪われてしまう。

秀吉は直ちに信孝の指揮を遮ると、光秀のもう一つの居城である丹波亀岡城攻略を高山右近と中川清秀に命じた。
亀岡城には明智軍はほとんどおらず、ほぼ無血に近い状態で占領した。
一方、近江坂本城は6月14日に落城し、これにより明智一族は滅亡した。
翌15日には、小栗栖の農民が光秀の首を秀吉の元に届け出てきた。
その頃秀吉は、丹羽長秀と信孝と共に京に入り、本能寺の焼跡を訪れて、故信長の霊を弔っていた。
秀吉は、光秀の首実検を済ませると、その首を本能寺の門前にさらした。
この後、秀吉は信長の居城安土城へ向かったが、なんと、安土城は本能寺の変後、明智軍の襲撃を恐れた信長の次男・織田信雄が火を放ち、天守閣は焼き崩れていた。
<織田信雄>

この頃、近江柳ヶ瀬に柴田勝家率いる大軍が北陸から到着したとの報が届く。
勝家も秀吉と同じく光秀を討ち、亡き信長の後継者として、つまり「天下取り」を視野に入れ大軍を南下させて来たが、近江に入り、初めてすでに秀吉が事を済ませていたことを知り、仰天したのであった。

「威信」-10

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