FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

死の儀式



翌6月4日の正午、高松城主・清水宗治は湖に舟を出し、舟の中で切腹をするという「死の儀式」を整えた。
秀吉側からは堀尾吉晴を検死役として、さらに贈物の酒肴を乗せ、宗治の舟に漕ぎ寄った。
宗治は、その酒で城兵らとの別れの宴を済ませると、秀吉全軍の見守る中で「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」と辞世の句を詠み終えると、割腹し果てた。
宗治による「死の儀式」が終わると、秀吉は全軍に勝鬨を挙げさせ、この合戦が織田方の勝利であることを示させた。
同時に急いで恵瓊を呼び出すと、和議を確定させるために誓紙を取り交わし、次いで両家の人質を交わし、毛利家との和議を確実のものとした。
秀吉は軍議を開き、まずは信長の死を家臣一同に知らせ、弔い合戦のため一刻も早く京へ戻り、明智光秀を討つ決意を告げた。
そして、撤退の順序を一番に宇喜多秀家を、そして殿(しんがり)軍に黒田官兵衛と決めて、急いで撤退し、一旦播磨姫路城に入るよう命じた。
あとは、秀吉自身の撤退時期をいつするかという難事が残っていた。
和議は成立したものの、場合によれば、毛利軍は和議を破約し再開戦ということもあり得る。

「威信」+10

さて、秀吉自身はどの時期に撤退をするか?
即刻、全軍とともに撤退する
毛利軍の退陣まで、撤退は待つ
スポンサーサイト